1989年3月1日 読売新聞

ベトナム・名古屋
「ミシン」持参の主婦外交 戦争未亡人や孤児のため

「皆さんから寄せられたミシンを無事、ベトナムへ届けてきました」――中古のミシン250台を携えてベトナムを訪れた緑区大高町の主婦で、「ベトナム友好市民の会」会長・高橋ますみさん(50歳)ら同会メンバー8人が、このほど帰国した。
ベトナム戦争の後遺症に苦しむ戦争未亡人や孤児たちのために、主婦らがやってのけた“体当り市民外交”は、ベトナムで大きな反響を呼び、国内でも称賛の声が上がっている。(ベトナムでの写真は高梁さんらの提供)

募集に共感、全国から250台

市民の会 施設に配布、歓迎の渦

一行は、2月13日に名古屋空港を出発。15日に首都ホーチミン市(旧サイゴン市)のサイゴン埠頭で、すでに到着していた船積みミシンと合流し、ミシンの受付役の同市社会福祉局代表との間で贈呈式を行った。
ミシンは主に、同市の婦人会、孤児が多いクーニョン区、そしてブンタオ市婦人会の運営する福祉センターなどへ、75台づつ配られた。
一行は、数日にわたって、このミシン配布先の施設を巡回。どこでもベトナム人の婦人らの大歓迎を受けた。
この民間ミシン外交は、主婦や教師らで作る同市民の会が、一昨年6月にベトナムを訪れたのがきっかけだった。
同国はベトナム戦争後の復興途上にあり、一行の胸を打ったのは、ブンタオ市の福祉センターで戦争未亡人達のミシンを踏む姿だった。指導者の同市婦人会長のリュウ・チ・レイさん(52歳)が、「自活のために、やっと5台を自前で手に入れました」と語ったのが、特に印象的だったという。
帰国した高橋さんらは、早速中古のミシン集めを開始.共感の輪は全国に広がって、北は室蘭、南は宮崎から続々ミシンが送られてきた。
ミシンメーカーのブラザーミシン(本社・名古屋市)も社をあげて協力し、修理の手を入れて250台が整えられた。
友好のミシンを届けて帰国した高橋さんは「向こうでは、ミシン1台で生活ができ、2台あれば家が建つという貴重品。物に囲まれて生活する私達の意識を揺さぶるに十分な体験でした」と報告。
また「国際交流というと大げさに聞こえるが、一市民でもこんなことが出来るということを実証できてうれしい」と満足気だった。


視察で実感「自活の援助を」
松本さん「ミシン訪問記」寄稿
友好の根は市民交流

「ベトナム友好市民の会」の一員として、ベトナムを訪れた守山区向台の主婦(40歳)が、「ベトナムへのミシン訪問記」と名づけて、本社に報告記を寄稿してきた。
ベトナムは、テト(旧正月)明けのこのごろが乾季とあって、一番過ごしやすく、ホーチミン市も活気にあふれていた
サイゴン港での贈呈式に続いて、翌日は朝早くからミシンの寄贈先のホーチミン市婦人職業訓練校を訪問。ここでは、戦争で夫や両親を亡くした女性たち400人ほどが、帽子、カバン、手工芸品などをつくっていた。
私達の到着と同時に「カムオン、カムオン(ありがとう、ありがとう)」の声が、若い女性たちからわき起こった。
どのミシンにも、いつでも動かせるようにと糸がつけられていた。
夜は同市の迎賓館で、市民訪問団としては異例の歓迎レセプションのもてなしを受けて。リエン副市長(女性)がお礼を述べられた。
翌日と翌々日はブンタオ市へ移動。市内にはフランス植民地時代の建物と、ベトナム戦争当時の激戦の跡が今も残っていた。
出迎えの婦人会長リュウ・チ・レイさんは元解放戦線の闘士。毅然としながら、それでいて優しさを漂わせていて友好的。ミシンを贈られた喜びを、お国のことわざを引用して、「空腹のときの小さな食べ物は、満足のときの大きな食べ物より勝る」と表現された。
高橋さんに感謝のしるしということで、レイさんの宝物ともいうべき婦人会長歴10年の布製表彰状を、「どうしても持って帰って欲しい」と勧めていたのに感激した。
国と国の友好は、こうした市民レベルの交流に根ざさなければならない。それを体験できた貴重な試みだった。


駐日大使が感謝の来名

 高橋さんら市民の会の骨折りに感謝して、中日ベトナム大使のヴー・ヴァン・スンさんが7日夜に来名。
ホテルオークラ(中区丸の内2丁目)で[日本とベトナムの交流のこれから]と題して講演。続いて、高橋さんらが交流パーティを開いてもてなすことにしている。
7日講演、パーティ


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