シリーズ●つなぐ Vol 4
TYING

グエン・トリ・ユン
プロフィール  1948年、サイゴン(現ホーチミン)市生まれ。‘67年来日。’77年に筑波大学の博士課程を卒業。同年より国連の専門官をつとめる傍ら、名古屋において市民運動にも参加している。

日本の市民が間をとりもって、ベトナムとアメリカの市民の和解を呼びおこして欲しいんです。

めまぐるしく変わる世界情勢の中で、
経済大国日本、アジアの先進国である日本の役割が注目されています。
よりグローバルな視点から見れば、私たち一般市民こそ、
国やイデオロギーの違いに捕われることなく、
今、もっとも自由に活動できる立場にあるのではないでしょうか。
                             構成・文/柳田耕一

―――国連ではどんな仕事をされていますか。
ユン 名古屋国際センターにオフィスのある国連地域開発センター(UNCRD)で、主に第3世界の地域開発に関する研究をしています。また、それぞれの国にあった開発のやり方を学んでもらうため、毎年、開発途上国の地域開発に携る人を対象に研修を行っています。スタッフは30名ほどで、国籍は15ヶ国とバラエティーに富んでいます。皆それぞれのバックグラウンドを通して日本を見ていますからとてもユニークな職場といえますね。
 学生時代は経済を専攻していましたが、現在の仕事についてから学問としての経済と現実の経済活動とは、大きな隔たりがあることを痛感しました。特に開発途上国の場合、全ての取引が市場を通して行われるわけではありません。実際には、先進国の計算や理論では到底計ることのできないダイナミックな経済活動が存在するのです。
 また、お金の価値も国によって大きく違います。物の物価のことではなく、例えば1年中温暖な国と、気候の差が激しく冷暖房や衣類をたくさん必要とする国では、同じ100ドルでも価値が違います。食糧やエネルギーの需給率についても同じことが言えます。
 現在、一般的にはGNPを経済の基準にしていますが、これは、市場経済のひとつの尺度にすぎないのです。もともと経済そのものが社会の一側面でしかないのですから。
―――長い間日本に住んでおられてこの間の日本社会の動きをどう感じますか。
ユン 元来、日本はとても自然に恵まれた国だと思います。繊細な四季の移り変わりと、人間の文化・風俗の調和こそ世界に通用する「日本の美」「日本の魅力」だと思います。
 私が日本にはじめて来た23年前、私は確かにそのことを肌で感じました。その頃日本はすでに高度成長期に入っていましたが、その後の変化を思えば人も町もまだまだおおらかなものでした。
 経済成長とともに日本国内の開発は速度を増し、公害イコール日本のイメージが定着した時期もありました。その後日本は、多くの問題を解決しましたが、人々の心からはあきらかに、なにかに愛着をもつ、という気持ちが失われていったように思えます。開発のスピードがその土地で生活する人にとって速すぎるし、なんでも新しくしようとしすぎているからだと思います。
 経済成長のスピードがダウンすることに日本人は恐怖心さえ抱いているように見えます。今でも毎年、韓国が一つできるほどの経済規模を拡大させているのにです。
私は、日本に長く住むものとして、日本が海外から非常に誤解されている国だと感じます。しかし同時に、私には世界の国々が日本を理解できない気持ちも解るのです。仕事などで、日本人、外国人双方の意見や認識の違いを聞いていると、私は議論に加わることさえ遠慮してしまいます。そして、いつもこう言うのです。「とにかく、相手の国に行ってみて下さい。そして、できるだけ多くの一般市民に接してください」と。
―――市民運動についてのユンさんの考えと実践をきかせてもらえますか。
ユン 私は一昨年前ごろから、多くの日本の友人たちと、ベトナムへ行くようになりました。一般の主婦をはじめ、小学生から大学生、先生、カメラマン、作家、社長など様々な立場の人々に、今のベトナムを体験してもらったのです。それは、ベトナムの市民にとっても日本の一般市民との初めての出会いでした。(日本製品は、ベトナムでも数多く出回っています)
 戦争中、激しい戦闘のあったブンタオという町の婦人会を訪問したとき、戦後の復興に苦労している婦人会の現状を知り、帰国後、中古のミシンをベトナムへ送ろうということになりました。そのことが動機になって名古屋の中に「ベトナム友好市民の会」が生まれ全国に広がるミシン運動へと発展していったのです。今までに計3回、800台以上のミシンを送ることができました。ミシンを送られた婦人会は、思いがけない日本の市民からの援助に勇気づけられ、今では地域のリーダーシップをとって経済や生産の向上をはかるという活躍ぶりです。
 私は、今回のミシン運動は、市民間交流だったからこそ成功したと確信しています。“経済大国日本からミシンが送られてきた”というだけでは、ベトナムの市民もあれほど心を動かされなかったと思います。
 「ベトナム友好市民の会」は、一台一台のミシンが日本のどんな人々によって提供されたか、どんな心が込められているかをベトナムの人々に伝えました。ミシンは、今戦争未亡人や孤児の生活手段として大活躍しています。そして、私たちにとってもっとうれしいことは、この運動をきっかけに別の形で、別の人々が新たな援助なり、交流なりに加わってくれたことです。
 学校同士で、ベトナムと日本の子供達の絵を交換し、子供達の教育と未来を語り合った先生がいます。会社の創立記念にベトナムの病院へ100台の車椅子を送った社長さんがいます。
 そこには、イデオロギーの違いを超えた人間の交流、真の相互理解があります。これは、個人レベルだからこそ、一般市民だからこそ、できたに違いないのです。というのは、ベトナム側も市民交流だということで、いろいろな手続きや規則の面でずいぶん柔軟な対応をしたのです。
―――ユンさんが今、夢みていることはどんなことですか。
ユン それは、ベトナムで“国際市民の村”というプランを実現させることです。場所はブンタオ、日本の市民の皆さんとの交流のきっかけになった“ミシンを送ったブンタオ”です。ブンタオはもともと海岸リゾートの町で、ホーチミン市から150キロメートルあまり離れています。
 私はここに国籍を問わず、市民間交流のできる文化施設を作りたいのです。発起人になるのは、私とベトナム人の友人とベトナムのことを理解する日本の友人たちです。私たちは、善意ある多くの人々に基金の形でこのプランに参加して、ともに活動してほしいと思っています。もしもこの夢が実現し、世界の市民交流に役立てばこんなにうれしいことはありません。
 それともうひとつ、私の“第二のふるさと”日本が、アジアの一国として愛される国であってほしいと願わずにはいられません。そのためにも、日本とアジア諸国が援助する側される側という関係でなく、遠い将来まで考えた協調と連帯の意識を互いにもたなくてはと思うのです。
 東欧の動きを見ても、パワーの中心は一般市民に有ります。‘90年代は、市民の時代といえそうです。


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